観音崎灯台


観音崎灯台

3代目の観音崎灯台です。初代は、フランス人技師により建設された。明治2年1月1日我が国初の洋式灯台完成。
光源は、中国産の植物油であった。大正11年地震で倒壊。大正12年6月26日、光源として白熱灯を用いる。2代目は、関東大震災で使用不能。

現在の灯台は、大正14年に完成された。地上高15m、水面から56m、7万7千カンデラ、光到達距離19海里です。
入場料大人150円

光源光 源
観音崎内部


観音崎灯台の螺旋階段

観音崎灯台には、この螺旋階段を登ります。
壁には、日本各地の灯台の写真がこのように展示してあります。
観音崎灯台


観音崎灯台からの眺めです。


弾薬庫


観音崎灯台の近くにある弾薬庫跡

観音崎は、東京湾の入り口に突き出た形をしている。江戸時代から防衛のために砲台場が造られた。
江戸時代会津藩が、ここの守りにつき会津に帰ることもなく、ここで亡くなった会津藩士の墓が近くにあります。明治28年に15の砲台があった。
会津藩士の墓

会津藩に帰ることなく亡くなった藩士の墓。
江戸幕府の命令により会津藩(約800名)が江戸を守るための砲台を建設。1810年のことである。
白河以北一山百文などと馬鹿にした藩があったとか。
多くの大名から会津藩が選ばれたのは、優秀な人材、北国独特の辛抱強さなどが幕府の信頼を得ていたからではないだろうか・・・。
弾薬庫2


砲台場近くにある弾薬庫です。

斜面を削り弾薬庫を建設した。

加賀前田藩の砲台(復元)
弾薬庫の内部


弾薬庫跡は、全て閉鎖されている。手が入るくらいの穴からカメラを入れて撮影しました。明治15年から明治28年の間に建設
観音崎公園


観音崎公園

砲台場があった場所は、今公園として整備されている。近くには、戦没船員の慰霊碑がある。
今は、平和なとき・・・